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第5話 境界線

last update Fecha de publicación: 2026-07-25 19:00:14

診察が終わってから、三日が経った。

透は、次の予約を入れていなかった。

神谷から「症状が改善しているので、また何かあれば来てください」と言われたからだ。

つまり、もう通う理由がなくなった。

透は、それが嬉しいはずなのに、どこか寂しかった。

(もう、会えないのかな)

そう思うと、胸が締め付けられるような気がした。

月曜日の昼休み。

透は、いつものようにあの小さな公園へ向かった。

木々は、すっかり葉を広げていた。

透は、ベンチに座っておにぎりを開けた。

でも、食欲があまりなかった。

神谷のことばかり考えてしまう。

あのカフェでの会話。

あの、柔らかい笑顔。

あの、静かな声。

(また、会いたい)

透は、その気持ちを認めた。

でも、どうすればいいのか分からなかった。

もう患者じゃない。

偶然を装って、またあのカフェに行く?

でも、それは不自然だ。

神谷に、不審に思われるかもしれない。

(そもそも、先生は俺のことなんて……)

透は、そこで考えるのをやめた。

期待しても、傷つくだけだ。

透は、おにぎりを一口食べて、空を見上げた。

青い空に、白い雲が流れていた。

綺麗だった。

でも、その美しさが、今は少し切なかった。

その日の夕方。

透は、クライアントとの打ち合わせを終えて、オフィスに戻ろうとしていた。

駅へ向かう途中、ふと視界に見覚えのある景色が入った。

(……あれ、ここ)

透は、足を止めた。

ここは、神谷のクリニックがある街だった。

打ち合わせの場所が、たまたまこの近くだったのだ。

透の心臓が、早く打ち始めた。

(あのカフェ、この近くだったよな)

透は、迷った。

行くべきか、行かないべきか。

でも、足は既に動き出していた。

「Café Lumière」

看板が見えた。

透は、深呼吸をして、ドアを開けた。

店内は、前回と同じように静かだった。

客は、数人。

透は、店内を見渡した。

(……いない)

神谷の姿は、なかった。

透は、少しほっとしたような、がっかりしたような気持ちになった。

(そりゃそうだよな。毎日来るわけじゃないだろうし)

透は、前回座った窓際の席に座った。

ホットコーヒーを注文し、窓の外を眺めた。

夕暮れが近づいていて、空がオレンジ色に染まり始めていた。

コーヒーが運ばれてきた。

透は、一口飲んだ。

(……あの日と、同じ味だ)

透は、前回のことを思い出した。

神谷との会話。

あの、心地よい時間。

(もう一度、話したいな)

透は、そう思った。

でも、それは叶わない願いなのかもしれない。

透は、コーヒーを飲み続けた。

そして、三十分ほど経った頃。

カフェのドアが開いた。

透は、何気なく顔を上げた。

そして──

心臓が、止まりそうになった。

入ってきたのは、神谷だった。

神谷は、カウンターで注文をしている。

まだ、こちらには気づいていない。

透は、どうすればいいのか分からなかった。

声をかけるべきか。

それとも、気づかれないようにやり過ごすべきか。

でも、神谷がコーヒーを受け取り、振り向いた瞬間。

視線が、ぴたりと交わった。

神谷の目が、わずかに見開かれた。

透は、ぎこちなく手を上げた。

神谷は、少し驚いた顔のまま、透の席に近づいてきた。

「……朝倉さん」

「こんにちは」

透は、できるだけ自然に笑おうとした。

「また、偶然ですね」

「ええ」

神谷は、少し戸惑ったような表情をした。

「このあたりで、お仕事ですか?」

「はい、打ち合わせがあって。それで、ふと思い出して……ここに来てみました」

「そうですか」

神谷は、透のテーブルを見た。

そして、少し迷うような仕草を見せてから、言った。

「……また、ご一緒しても?」

透の胸が、熱くなった。

「はい、ぜひ」

神谷は、前回と同じように、透の向かいに座った。

ふたりの間に、また短い沈黙が流れた。

「目の調子は、どうですか?」

神谷が、最初に口を開いた。

「あ、はい。だいぶ良くなりました」

「それは良かった」

神谷は、コーヒーを一口飲んだ。

「無理はしないでくださいね」

「はい」

透は頷いた。

そして、勇気を出して聞いた。

「神谷先生は……いつもこの時間に?」

「ええ。診察が終わると、だいたいこの時間になります」

「そうなんですね」

透は、その情報を頭の中にしまった。

(じゃあ、また……)

そう考えかけて、透は自分を戒めた。

(ダメだ。ストーカーみたいになっちゃう)

「朝倉さん」

神谷が、透の名前を呼んだ。

透は、顔を上げた。

神谷は、少し真剣な表情をしていた。

「あの……」

神谷は、言葉を探すように間を置いた。

「もう患者さんではないので、こんなことを言うのは変かもしれませんが」

透の心臓が、早く打ち始めた。

「朝倉さんは、ちゃんと休めていますか?」

「……え?」

「前にもお話ししましたが、目の疲れは心の疲れでもあります」

神谷は、透をまっすぐ見つめた。

「朝倉さんは……いつも、何かに追われているような気がします」

透は、息を呑んだ。

「診察のときも、今も。どこか、緊張している」

神谷の声は、優しかった。

「もっと、力を抜いてもいいんじゃないですか」

透は、何も言えなかった。

神谷の言葉が、胸に深く刺さった。

(この人は、見抜いてるんだ)

俺の、本当の姿を。

取り繕っている顔の、その奥を。

「……すみません」

神谷が、小さく謝った。

「余計なことを言いました」

「いえ」

透は、首を振った。

「その通りです。俺、いつも……誰かの期待に応えようとして、本当の自分を出せなくて」

透は、初めて本音を口にした。

「誰かの目を見るのが、怖いんです」

神谷は、黙って聞いていた。

「自分が何を考えてるのか、バレるような気がして。それで、いつも視線をずらしてしまう」

透は、俯いた。

「でも、先生の前だと……なぜか、逃げられない」

透は、顔を上げて神谷を見た。

「先生は、ちゃんと俺を見てくれるから」

神谷の瞳が、わずかに揺れた。

「だから……怖いけど、嬉しいんです」

透は、そう言ってから、慌てて付け加えた。

「変なこと、言ってますよね。すみません」

「いいえ」

神谷は、静かに言った。

「変じゃないです」

神谷は、コーヒーカップを両手で包んだ。

「私も……」

神谷は、少し迷うような表情をした。

「人の目を見るのが、得意ではありませんでした」

透は、驚いて神谷を見た。

「仕事だから、見ることはできます。でも、それは"診る"ことであって、"見る"こととは違う」

神谷は、窓の外を見た。

「人の心を見るのは、怖いんです。自分の心も見せなければいけないから」

透は、神谷の横顔を見つめた。

「でも、朝倉さんは……」

神谷は、透を見た。

「私に、そうさせてくれる気がします」

透の胸が、大きく跳ねた。

「怖いけど、見てみたいと思わせる」

神谷の声は、いつもより少しだけ震えていた。

「それが、どういう意味なのか……私にも、まだ分かりません」

ふたりの間に、沈黙が流れた。

でも、それは心地よい沈黙だった。

言葉にできない何かが、空気の中を漂っていた。

カフェを出たのは、夕暮れが深まった頃だった。

外は、すっかり暗くなっていた。

街灯が、オレンジ色の光を放っている。

「では」

神谷が、別れを告げようとした。

「あの」

透は、思わず声を出した。

神谷が、振り返った。

「また……ここに来ても、いいですか?」

透は、勇気を振り絞って聞いた。

神谷は、少し驚いたような顔をした。

そして、小さく微笑んだ。

「ええ。私も、よくここにいますから」

透は、嬉しさで胸がいっぱいになった。

「じゃあ、また」

「はい。また」

ふたりは、それぞれの方向へ歩き出した。

透は、何度も振り返りそうになるのを我慢した。

でも、角を曲がる前に、一度だけ振り返った。

神谷も、同じように振り返っていた。

視線が交わり、ふたりは照れたように笑った。

そして、それぞれの道を歩いていった。

その夜、透は自分のベッドに横になりながら、

神谷との会話を反芻していた。

(また、会える)

その事実が、透を幸せにした。

でも同時に、不安もあった。

(これって、何なんだろう)

友情?

それとも──

透は、その先を考えるのが怖かった。

もし、これが恋だとしたら。

もし、神谷も同じ気持ちだとしたら。

でも、それは叶わない関係なのかもしれない。

医師と患者だった。

その境界線を、越えていいのだろうか。

透は、天井を見つめながら、答えの出ない問いを繰り返した。

同じ夜、神谷も自宅のソファに座り、考えていた。

朝倉透のこと。

あの、視線を逸らす癖のある男性。

でも今日は、まっすぐこちらを見てくれた。

そして、本音を語ってくれた。

(私も、本音を話してしまった)

神谷は、自分の行動を振り返った。

患者に対して、あんなに個人的な話をするなんて。

いや、もう患者ではない。

でも、それでも。

(これは、良くない)

神谷は、そう思った。

(また、同じことを繰り返すのか)

神谷の脳裏に、ある記憶が蘇った。

大切な人の顔。

失った痛み。

二度と、あんな思いはしたくない。

でも──

神谷は、目を閉じた。

朝倉の笑顔が、瞼の裏に浮かんだ。

(もう、遅いのかもしれない)

神谷は、小さく息をついた。

春の夜は、まだ少し冷たかった。

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